妙法慈石会 登陵山 清川寺 妙法慈石会 登陵山 清川寺
妙法慈石会 登陵山 清川寺

妙法慈石会とは

私どもはこれまで何万件と言う実例とともに、不如意なる人生苦の原因がどこにあるのか、その原理性と問題解決の道行を探って参りました。ごく大まかに言うのなら、かけがえのない人間存在が、千載一遇のこの人生において、心ばかりか体も健康に、人生をかけてこれだと思う職業や切り口から、大いにまた確実に社会に花開く為の具体的な方途を意味します。加えて、その方途とは現代の文明性の指標である、「あるあらゆるあるべき生命と社会の賛歌」を可能にするものであり、故に、たんなる個人的な自己満足や完結に終始せず、人間にうまれ、かけがえのないこの生を、あるべき力強く安定した「生命(現象)」として、あるべき力強く安定した創造的な生産生活に導かれる「社会」や文明的な歴史を実現する存在者ならしめるものです。


それは、言わば、宗教を切り口にした文明論(この度、人間に生まれて、愛すべき者、また、かけがえのないものにかこまれ、強く安定したその命で、思い切りこの世の中に自他の幸いをかなえる為に、一体、何をしなければならないか)なのです。実に、私どもは、この宗教文明論とそれに導かれる宗教的な生活実践の一大事(法則性)を以て、迷える数多の生命の安定と社会における自己実現を為さしめることで、潜在的にも幾万人の方々から信奉を得て今日に至ります。


言うまでもないことですが、これは、教えと称する「観念の体系」を信じ込ませ目隠し、その実、無償労働や選挙権を提供させたり、あるいは、近親の死に目に、勢い弱り目に祟り目で墓を購入させ年会費を贖うなどの、いわゆる、従来の宗教文化に由来する、人生や苦悩の理由付けや解釈、あるいは、惰性的な習慣の類とは全く異なります。単なる心の持ち方や解釈の仕方、信仰と称して盲目になり、理性的な判断を停止し、自己を放擲する(しばしば教団組織の為に自己犠牲を払う)ことで贖われたり称賛されたりする世界とは全く異なるのです。


妙法慈石会の教えとは、人間が唯一一介の存在者として強い命となり、その強い命を以て自分が生まれてきた意味そのものの様な大切な事柄をかなえ、そうした幸福とともにあるべき社会を作り上げる実践そのものを意味するのです。

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